NPO法人 緑区子どもサポートセンター
   第46号 平成26年5月

子どもの遊びと大人のかかわり



四月二十七日、事務所に中村桃子さんをお招きしてお話をうかがいました。
中村桃子さんは2000年夏、ドイツのミュンヘンで「あそびのまち・ミニミュンヘン」を訪ね、
子どもたちの活気と生き生きとした姿に魅了されました。
そして「こんなおもしろいこと、地元・佐倉でやりたい!」と
2002年春、日本で初めての「こどものまち・ミニさくら」を千葉県佐倉市で開催しました。
それから十二年。現在では二児の母となった桃子さんが試行錯誤しながら考えてきたこと。
とりわけ私たちがいつも悩む「大人のかかわり」についてお話していただきました。
その内容をご紹介会います。



「こどものまち」はあそびのまち
 「こどものまち」は子どもの遊びのまちです。
では「遊び」とはどのようなものか少し考えてみましょう。


*わくわくどきどきするもの。
*始めるのも、やめるのも自由。
*好きなように変えられるもの。
*大人の評価は不要です。
*ただ単におもしろいからやっていること。


このようなイメージでしょうか?子どもの遊びは自由なものです。
それをすることで何かプラスになるからとか関係なく、
ただ単におもしろいから・・・で十分なのです。
じゃあ子どもの世界にほんとうは大人が入らない方がいいんじゃないか
----こどものまちで大人は一切手を出さない方がいいんじゃないか
----このように考え始めると袋小路に入ってしまいわからなくなってしまいます。
以前、ミニさくらで「大人の学校」というのを開いたとき、
話し合いのなかで子どもから次の五つのことがだされました。

見守ること!
忍耐すること!
指図(さしず)しないこと!
口出ししないこと!
楽園天国!(子どもにとって楽園であること)

 五つの頭文字をつなげると「ミニさくら」となるようになっています。


大人は何もしなければいいのか?

 以前大人で話し合いをしているとき、
大人はなにもせず広い場所に段ボールをいっぱいおいて、
あとは子どもの好きなようにさせるのはどうかと提案する方がいました。
 でもそれは私がやりたかった「こどものまち」ではないように感じました。

7〜8年前「ミニさくら」の中心になっていたのは、高校生一人と小学生ばかりでした。
私たち大人はなんでも子どもたちで決めてもらおうとしましたが、
ある時、高校生の子から「なんでも全部子どもでやれって言われてもわからないよ!」
と言われてしまいました。
大人の準備不足で、当日ブースが開けないということもありました。
子どもに自主的にかかわってほしい!
なんでも子どもの発想で作ってほしいと期待するのも、
大人の理想の押し付けではないでしょうか?


経験やイメージがあるから広げられる

以前、ラジオ局の取り組みをやったことがありました。
その時、ラジオ局を担当した人は『インタビューシート』というのを用意し、
事前にしゃべることを子どもに準備させていました。
それが私にはとても大人の押し付けで作為的なように思えてならず、
そのことに随分反対しました。
前年にやった新聞社の時、
子どもたちは自分で自由にインタビューをしている姿が見られたからです。
でも、当日準備をせずにラジオ局を開設したところ、
子どもたちはマイクに向かって「ア〜!」とか「わ〜。」とか大声をあげたり、
ふざけるばかりで全く放送になりませんでした。
子どもたちには新聞記者のイメージはあったのですが、
馴染みのないラジオ放送で何をしゃべればいいのか全くイメージを持てなかったのです。
実際のラジオ放送でも自由に好きなことをしゃべっているように思っていましたが、
全て台本があり、事前の取材をもとに話していることもわかりました。
経験のないものやイメージできないものを
好きなようにやれと言われても子どもは苦しくなってしまうのです。
子どもの経験や知識の量によって、必要とされる支援も変わってくるのだと気づきました。
ただ、それを押し付けてしまっては台無しなのです。


ただ一緒に楽しんでいる「ミニ・ミュンヘン」の大人たち

 私が学生の時に訪れたドイツの「ミニ・ミュンヘン」では
巨大な体育館のような施設で三週間「こどものまち」が開催されます。
準備は全て大人がします。
そして、レストランにはプロのコックさん・家を建てるところには建築士など
プロの大人が一緒に活動します。
でも、子どもに何かを教えてあげようなんて思っている大人は一人もいませんでした。
ただただ子どもと一緒にやることが楽しいからやっているのです。
そして、子どもと一緒に活動することが日常の自分の仕事に大いに役立ち、
子どもから学ぶことがたくさんあると口々に言います。
「子どもってすごいな〜!」「おもしろいな〜。」そんな声ばかりが聞かれました。
子どもと大人の間にはたがいにあこがれや共感が感じられました。
ともに楽しみ互いにあこがれる関係の中では、大人の支援が押し付けにならないようでした。


 「こどものまち」は教育の場?

 「ミニ・ミュンヘン」を主宰しているゲルト・グリュナイスル氏は
「我々は教育者である。」
こどものまちは「教育プログラムである」と言っています。
 私ははじめその「教育」という言葉がしっくりしませんでした。
以前、「ミニさくら」で税務署の子どもがお金を集めているときに、
領収証を出さないのはおかしい、領収証の書き方も知らないんじゃだめだ!
と言う大人の人がいました。
子どもは自分の気持ちを伝えられず泣いてしまいました。
私も「こどものまち」は社会の仕組みを学ぶための体験学習じゃないと強く思いました。
遊びの中でこそ子どもは学ぶ

「ミニミュンヘン」を訪れたとき私は「市民会議」があると聞き見学に行きました。
でも、会議はキャンセルされていて、
私はゲルドさんに次の会議はいつあるのかと尋ねました。
ゲルドさんは「知らない。」と言いましたが、
私の英語が伝わってないのかと思いしつこく尋ねると
「知ったこっちゃない!それは子どもが決めるんだ!」と強い口調で言われました。
 ゲルドさんは子どもに決定権を全て委ね、一切口出しをしようとしませんでした。


遊びの価値を認める大人の反応や態度には、次の三つがあると思います。

A 教育に遊びの要素(楽しい)を利用
する。(遊びの本質:主体的な活動、面白さが目的、は失われる)

B 大人の責任として遊びの空間・時間・仲間を保証するが、
大人はなるべくさがっていよう。(子どもの世界を大切に)

C 学校教育に変わるナルタナティブな教育の場として、遊びのプログラムをつくる。

ゲルトさん達はCです。
そして
「我々、教育者の役割は、
幅広い品揃えを展開し子どもの選択肢を用意すること」
と考え、実践しているのです。
ゲルトさんは「教育者である大人は 結果が分からない ことに寛容でなければならない」
と言っています。
「知ったこっちゃない!それは子どもが決めるんだ!」
というゲルトさんの言葉はその表れです。
せっかく幅広い選択肢を用意しても、
決定に大人の考えを押し付けてしまっては、用意した意味がなくなります。
準備すること=選択肢を広げることを教育者の役割として明確に位置づけることが、
結果を子どもに用意しているのではないかと感じました。
ゲルトさん達の「我々は教育者である」という信念が
「ミニミュンヘン」が遊びであることを守っているということに、
昨年になって気付いたのでした。