NPO法人 緑区子どもサポートセンター
   第23号 平成20年9月

〜命の水源を求めて〜

   『ペシャワール会』中村哲氏講演会


2008年6月1日、千葉県教育会館で中村哲さんの講演会がありました。中村哲さんは、1984年パキスタン北西辺鏡州の州都のペシャワールに赴任。ハンセン病を中心としたアフガン難民の診療に係るだけでなく、井戸や灌漑水路の建設など現地の人々の自立を支える事業に精力的に取り組んでいます。PMS(ペシャワール会医療サービス)の総院長であり、「アジアのノーベル賞といわれる「マグサイサイ賞」など多数の賞を受賞しています。
9月の「すきっぷ」発行のためこの原稿を書いていたまさにその時、「ペシャワール会」のNGO職員として農業支援をしていた伊藤和也さんが拉致されたというニュースが飛び込んできました。多くの関係者が無事な解放を願ったにもかかわらず、伊藤さんが遺体で発見されるという最悪の結末を迎えてしまいました。講演会の時とは違う状況になってしまっている中、「すきっぷ」を発行していいものかとても悩みましたが、伊藤さんをはじめ、「ペシャワール会」の人たちの活動を多くの方に知っていただくためにも、本当の国際貢献とは何かをもう一度考え直すためにも、中村哲さんの講演会の内容をお知らせさせていただこうと思います。(文責 安藤弘美)



■清潔な水さえあれば9割の病気がなくなる

1984年、私はハンセン病患者への医療を行うライコントロールプログラムでペシャワールに赴任しました。当時赴任した病院には、2400人の患者に対して16のベッドしかなく、曲ったピンセット、使うと耳を怪我する聴診器などほとんど医療器具らしいものはありませんでした。医師のいない貧しい村がたくさんあることも知り、ペシャワール会では次々と医院を作ってきました。その中で私は医療以前の問題があることに気がつきました。清潔な水があれば9割の病気がなくなるのではないかということでした。ハンセン病も多いのですが、貧しいアフガニスタンにはマラリア・テング熱など様々な感染症がありました。この地域は単に医療だけでは人の命を救えないということを痛感しました。2000年の夏の大干ばつで1200万人が被災していました。人々はわずかな水をめぐって争います。干ばつは人々の心を荒廃させます。診療所の患者が急増し、体力のない子ども達が次々と死んでいきました。2000年7月、私の呼びかけで手掘りの井戸を掘りました。

■緑豊かだったアフガニスタンを再び

アフガニスタン東部とパキスタン北西部は元々同じ言語・文化をもった人々がわけられている状態です。外国によって勝手にひかれた国境なのです。アフガニスタンは6000〜7000m級の山が多く9割の人が農民か遊牧民でした。私たちがテレビでよく見るアフガニスタンは首都のほんの一部で特殊な地域しか報道されていません。ヒンズク山脈の雪と氷河が命の源です。この雪解けの水を水路によってひけば、干ばつで砂漠化したこの地を、また緑豊かなアフガニスタンにもどせると考え、手掘りの井戸や灌漑水路の建設に取り掛かりました。巨大な石にはばまれ、一ヶ月半で数十メートルということもあります。でも、どんなに時間がかかっても、この地域の人たちが先々まで自分たちで直せる水路を作ることが大切です。江戸時代から伝わる日本の土木技術は素晴らしいものがあります。コンクリートで固めるのではなく、石を金網のかごにつめ川に投げ込み、柳の木を植えると、柳はびっしりと根をはり、生きたかごとなり石をささえてくれます。私たちは村人たちとこの作業を続け、水路の建設をすすめました。

■誰でも知っている日本人

アフガニスタンではどんな山奥に行っても、みな日本人のことを知っています。その理由のひとつが「日露戦争」です。1979年ソ連がアフガニスタンに侵攻し、10年間の内戦で200万人が死亡しました。国民の十人に一人がこの戦争で死んだのです。アジアのほとんどが植民地化していた時代に大国ソ連に向かっていったというだけでも日本という国は非常に印象深いようです。それともうひとつ、日本は広島・長崎に原爆を落とされ廃墟になったのに、そこから立ち直り、それ以降戦争をしていないということです。羽振りのいい国は必ず戦争をするのに、日本は半世紀以上戦争をしていないということで大変信頼してくれていました。日本人というだけでアフガニスタンでは安全だったのです。

■アメリカ人の命とアフガニスタン人の命の重さ

2001年9月アメリカで起きた同時多発テロの際、私たちは日本大使館からの強い勧告を受け、一時アフガニスタンを離れました。軍事評論家たちの解説とともに、まるでゲームのようにピカピカ光る爆撃の光景ばかりが報道され続けました。あたかもピンポイント攻撃でテロリストだけを攻撃しているような印象をうけましたが、日本人はその下で逃げ惑う子どもや女性が見た「落とされる側の光景」は想像できなかったのです。同時多発テロの時の十倍の人が無差別に殺されました。アメリカ人とアフガニスタン人の命の重さは同じはずです。自由の象徴であるアメリカ兵を歓喜して迎えるアフガン市民の映像が、繰り返し、繰り返し流されました。私はこんなにも情報は操作されるものかと愕然としました。あの時は日本中がどうかしていたと思います。「アフガニスタンには爆弾ではなく、パンと水が必要なんだ。」と訴えた私は、日本中から「おまえはタリバンの手先か!」と批判されました。この時は「テロと戦う」と言えばなんでも通用したのです。

■都市部で生活する人が考えた支援より実行することが大切

2002年国連によるアフガン難民の復興プログラムが始まり難民の数は200万人と発表されました。でも、復興を期待していた難民を待っていたのは、さらなる干ばつにより砂漠化した大地でした。地球温暖化の影響が関係していると思われます。国連が助けてくれると思っていたのに、水も仕事もない土地で多くの人が死にました。アメリカの後ろ盾でスタートしたカルザイ政権に復興のために45億ドルの支援がありました。2割がアフガン政権にわたりましたが、他は多くのNGOにわたりました。しかし、先進国のあまりに相手を考えない支援の仕方ばかりが目立ちます。教育改革や女性の意識改革が悪いとはいいません。でも、その前に生きることのほうが大切なのです。

■患者より自分の思想のほうが大切なのか

たとえば病院でも、イスラム教徒の女性は医者に胸を見せることを拒みます。そんな時は女性医療ワーカーを増やすことのほうが大切です。現地の患者をいかに理解するかが大切なのに人権活動家と地元の人たちの間で度々トラブルがおきます。ここの患者が大切なのか自分の思想が大切なのか理解できません。あれだけのお金があればアフガニスタンはもっとよい国になっていたはずです。水も仕事もない砂漠化した農村から人々は都市へと流れていきましたが、貧しい人はさらに貧しく、一部の富める人だけがさらに豊かになり格差はひどくなる一方です。格差社会が広がる状況と自爆テロが増えることが無関係とは思えません。ヘロインの原料となるけしの栽培が広がっています。外国から持ち込まれたのは麻薬栽培の自由、売春の自由、働き手を失ったおかみさんが物乞いをする自由、餓死する自由なのでしょうか。

■本当の「自由」を求めて

「マドラサ」は通常イスラム神学校と訳され、「タリバンの温床」として理解され外国軍は支援どころか空爆の対象とするほどです。一昨年、「80人のタリバンを殺した」と米軍の発表がありましたが死んだのは全て年端もいかない子どもたちでした。このような誤爆が続き外国への不信感は増すばかりです。「マドラサ」には地域の家長らが集まり、大切な知らせや協議などが行なわれます。地域の文化センターであり、恵まれない子どもの福祉機関でもあります。タリバーン(神学生)という名前が誤解を生み、どの国際支援団体も協力しないのです。

水路工事とともに私たちがマドラサの建築に着工すると近隣の村長たちが顔をそろえ、中には「これで自由になった!」と叫ぶ長老たちもいました。「自由」とは何だろうと考えさせられます。彼らには宗教心の篤さとともに伝統や文化に対する強い誇りがあります。それが否定されるような動きに抑圧感を覚えていたのでしょう。「日本だけはわかってくれる。兵隊も送らない。」眉をひそめた西側の国際団体もあったでしょうがアフガン人のほとんどが狂喜したのです。
 「国際貢献」の名のもとに自衛隊が国連軍への給油を強行し、アフガンへの自衛隊派遣をも検討していますが、中村哲さんのお話を聞き、それがいかに外国人への不信感をまねいているかがよくわかりました。平和は武器では解決できないのです。