NPO法人 緑区子どもサポートセンター
   第21号 平成20年3月

〜遊びで育つ子どもの心〜


■「日本の子ども」は絶滅危惧種?

先月、インターネットの2チャンネル掲示板に「2月15日15時、千葉の女子小学生を殺しちゃいま〜す」という書き込みがありました。翌日犯人は捕まりましたが、その後も同じようないたずら目的の書き込みがあり、子どもをもつ親の不安は続いています。「学力低下」などと不安をあおるマスコミ報道も多く、最近は公園や空き地で自由に遊ぶ子どもの姿はめっきり少なくなりました。放課後は学習塾・バレエ・スイミング・新体操などスケジュールがいっぱいです。アフタフバーバン主宰の北島尚志氏はこのままでは日本の子どもは絶滅危惧種になってしまう!と心配しています。昨年、佐倉市でおこなわれた北島氏の講演をもとに子どもにとっての遊びとは何なのかを考えてみましょう。

■楽しみを消費する子どもたち

1983年に『東京ディズニーランド』が開園し、任天堂が『スーパーマリオ』を発売しました。そして『ドラゴンクエスト』が売り出され、当時学童保育で指導員をしていた私たちは、もう子どもたちが遊びに来なくなるんじゃないかと心配しました。そしてボディーブローのダメージのように、じわじわと副作用が子どもたちにあらわれてきました。おもしろさを消費する子、おもしろいことは与えられるものと思っている子が育ってきたのです。私たちの活動に参加する子の中には「今日は1000円分楽しませてくれるんだよね。つまらなかったらお金返してもらうからね。」などと言う子もいます。私は学童で働いていたとき、子どもたちを楽しませようといろんなゲームを考えたり、面白い企画を用意したりしていました。子どもたちもとても楽しそうにしていて自分でも自信をもっていました。でもある時、活動が終わるとひとりの女の子が私のところにきて、「もう遊んでいいの?」と聞くのです。「今まで自分がやってたのは何だったんだ!」ガーンと頭をなぐられた感じでした。じゃあ、遊ぶって何なんだろう。それから私は考えるようになりました。

■意味がわからない!子どもの遊び

子どもたちは意味のないことを沢山しますね。学童保育で、ある時女の子が「みんなでハトになろう。」と言いました。和室にポップコーンをまき、「ハトなんだから、手を使って食べちゃだめだよ。」と4人で手を使わずひとつ残らず食べきりました。大人からすると何のためにって思いますよね。僕も子どもの頃、缶けりをする時に友達から「オニにわからないように、服を取替えよう。」と言われ、かくれる時に服を替えたことを思い出します。「パンツまで替えないとだめなのかなあ。」と思いながら全とっかえをしたものです。でも不思議と一度も缶をけった記憶はありません。このように、子どもたちは意味がわからないことを山ほどします。大人からすると「なんで?訳がわからない!」ことばかりです。それが遊びなんです。体験っていうのは何を実感したかということが大切で、よくある体験のための体験は意味がないんです。

■遊びこめない今の子どもたち

「は〜い、みんな集まって!ここに座ってね。じゃあ説明しますよ。はい静かにして。」なんて遊びがはじまるんじゃだめですね。事前になんか隠しておいて、「実はこのなかにあったらおかしいものがあるんだけどな、、」「あっ!バスケットのゴールの上にペットボトルがあるよ!」「あっ、あんなところに、ぞうりがおいてある!」「実は爪楊枝も隠してあるんだけれど。」「え〜本当!」子どもはすぐに夢中になって集中してきます。大人の中にもこんなあそび心が必要になってきます。大人が遊びを本当におもしろがらないと子どものパワーは奪われてしまいます。今の子どもたちは禁止に囲まれているので遊びこめていないし、何が危険なのか何がいけないのか気付くチャンスを奪われています。大人の中にある禁止のまなざしを敏感に感じ行動をセーブしていますね。プレーパークの天野秀明さんは、大人は子どもの「うるさい・あぶない・きたない」を排除してきたけれど、この「うるさい・あぶない・きたない」こそが子どもの姿なんだと言っています。無駄で意味がなくてバカバカしいことが子どもの遊びそのものなのです。遊びは自分で作るもの。おもしろさを自分で作るとき、子どもの中ですごい力が育まれているんです。

■すぐに答えが出るスイッチを求めるようになった大人

「ディズニーランド」やファミコンの出現は大人の側にも多くの副作用を生み出してきました。便利なものに囲まれての生活はすぐに答えの出るスイッチを子育てに求めるようになってきています。私もいろいろなところでお母さんたちから相談を受けることが多いのですが、すぐに答えの出るノウハウをほしがる人がとても増えています。ウンチはする、夜は寝てくれない、泣いてばかりいるなど子育ては面倒で、不安でわからないことだらけですよね。でも、すぐに答えが出ないのが子育てですよ。子どもはとにかくまっすぐに歩いてくれないものです。でも子どもには遊びが大切だ!と言うことは子どもの時間を十分生きてもらう、ということです。にもかかわらず、実際の大人の関わりではそういう子どもにイラついたり、そんな子どもの心の動きを閉じ込める側に回ってしまっています。

■私たち大人は彼らと過ごすとき、この時間をともに生きる覚悟がなくてはなりません。

そして子どもの遊びの世界はある原則にのっとって動いていることがわかります。それは『面白い!』という原則です。面白さに向かって誰からも強制されず、自らが自由な意思で選びとっている様、これを遊ぶというのではないでしょうか。
「頭(かしら)を探せ」という遊びがあります。この街にひそむお頭に巻物を届けるのですが、頭の手がかりは頭に会ったときの合言葉「今何時ですか?」だけです。普通の人なら「2時です。」とか答えてくれるのでお礼を言って去ります。本物の頭なら「黒雲が出るであろう」と答えてくれます。1、2年生なんかだと「頭は変身が上手だから、犬とか猫になっているかもしれない。」と言い出します。猫は呼びとめると止まってこっちを向くけど、さっとどこかの家の庭などに逃げ込んでしまいます。「もう間違いない!頭だー!」と追いかけます。ところが時々「猫が怪しい」とか言うと、「猫になるわけないでしょう。」と怒ったりしてしまう大人がいます。これは子どもと心が響きあっていないからですね。

■街の優しさに心響かせて

「街を遊ぼう」という遊びをしていると7割ぐらいの人には怒られたり、不審な目で見られたりします。時には警察に通報されたことさえありました。でも時には「おい、今日はあのじいさんが怪しいと思って尾行しているんだろう。」などと声をかけてくれるおじさんがいたり、水を飲ませてくれたり、そういう優しいまなざしに支えられて続けてこれたと思っています。信頼する、安心する、優しくされる、うれしくなる、思いやるなど様々な感情を実感します。響関者に出会うと子どものパワーは大きくなります。人との関わりを閉ざさない子になってほしいのです。

■子ども時代に「さよなら」が言えるように!

私は人とかかわりあうことが自分のプラスになると思える子であることはとても重要だと思います。それは今の自分であっていいんだと思える心だと思います。それで私はどこかに子どもを連れ出して楽しませるのではなく、街であそび、街とかかわることを大事にしています。このことはすぐに答えはでないけれど、20年後、30年後に「子どもの頃にこんなことがあった。」とか「あのおばさんに、こうしてもらった」ということを心に刻んでいることが、必ずその子を助けてくれると考えているからです。心にいくつかの地図があれば、人生に迷った時、別の道を探すことができます。私が子どもの頃は、中学に入る前に年下の子どもに自分が大切にしていたメンコを譲ったものです。「俺はあしたから中学生だからもうメンコはいらない。」と思いました。子ども時代にしっかり子どもを生きて、子どもと決別して、思春期を向かえ大人になることが大切なのに、今の子どもたちには子ども時代をしっかり生きる時間の余裕がないのです。しっかりと子ども時代に遊びこむことは生き合う力の基礎工事なのです。土台作りをしないと思春期に崩れてしまいます。子どもにかかわる大人は子ども時代にさよならを言えるようにするのが仕事だと思っています。

《参考文献》
「まちを遊ぶT」晩成書房
「まちを遊ぶU」晩成書房